皆様は新々英文解釈研究という高校生向けの英文解釈の参考書をご存知であろうか。
大正元年に初版が「公式応用英文解釈研究」として発刊された。以来、90年間、高校英文解釈の参考書としてロングセラー、不動の位置を保っていた。
残念ながら時代の流れで、2004年ころに廃盤になった。
時代の流れとは、
私の受験時代(1970年代後半)は英語の勉強は、日本語訳が最も大事であった。如何に文法に沿って、かつ大意を失わず、下線部の英文を精密に日本語にする。
これが最も大事であった。
これこそが、試験の関ヶ原。これが上手くいくと試験で高得点が望め、これで失敗すると、英語の試験全体が無残なものとなった。
どうも、2000年以後は、「実用英語」とやらが幅を効かせてきたようだ。
実用英語?・・・日本語に直せなければどうにもならないだろう、と思っていたが、最近様子がどうも違うことに気がついた。やたら、話すとか聞くことが重視されている。また、あまり英文解釈、英作文は流行りではないそうだ。英語の勉強は流行りでやるものではないような気がするが、妙な話である。
センター試験でもヒアリングが導入され、200点が記述、50点がヒアリングという比率である。これが、今年の共通テストからは、記述100点。ヒアリング100点となるそうだ。
センター試験や共通テストがそうであっても、大学が独自に行う二次試験では、昔ながらの英文解釈、英作文が主流だろう、とおもっていたら、そうではないようだ。
例えば、北大の英語の試験問題。問題の中に日本語は一語もない。
東大の問題をみても、ヒアリングの比率が高く、英文解釈や英作文の数は少ない。
何か、このような問題なら、帰国子女や、あるいは、ネイティブにすごく有利になるような気がする(実際にそのような声は聞こえてくる)。少なくても日本国内で必要な英語とは、英語を日本語に訳して理解することと、日本語で考え英語にして、世界に発信することではないだろうか。
そして、その源は、日本の大学にある。大学の入試とは、そのような能力を持った人を選抜するために行われるものではないのだろうか。そのような人を養成して、日本国民に世界中の事物をわかりやすく紹介し、かつ、発信する。そのような人間を育成するところが日本国内における大学の主目的ではないのだろうか。
それが、帰国子女は外国人に有利な英語の試験をやってどうするのだ。どのような人材を欲しいのだ。
京都大学の問題を見た。
京都大学はさすがに昔からこだわりのある大学。こってりとした入試問題を作るということで受験生からは恐れられていた。
流石にここは、英文解釈、英作文の比率が高かった。しかし、問題を読むと、何やらあまり難しくない。昔我々を恐れさせたあの難しいくせに、どこか凛とした佇まいを見せる問題はどこに行ったのであろうか。
このブログでも小生の開発した「現代英文訓読法」の紹介ということで京大の問題を紹介したが、何というかあまり難しくないし、かつ、あまり私の好きな文章ではなかった。
失礼ながら、もっと高く聳え、我々を睥睨し、高い品格を持つ峻厳たる文章でないと私はやる気がしない。故に、それ以上の紹介はやめた。
ここまで書いても、私も還暦直前なので、ロートルの「昔は良かった」的なボヤキになるのかもしれない。しかし、残念ながらそうではないのだ。
2−3年前、母校の札幌医大の新入生と話す機会があった。
何のことはない。柔道部の新歓コンパである(私は柔道部の出身)。このような会が毎年行われている(今年はコロナで中止)。
そこで新入生と話をした。新入生と話をする、と言っても、もう子供のような年頃の若者だ。向こうもこちらもGeneration Gapの山で話題などあるわけもない。
そこで英語の話題に振ってみた。
近年、医学部は人気があり、受験生のレベルもすごく高い。彼らは日本で最高の頭脳集団であると言えるだろう。
また、英語の関して言えば、受験を終えたばかりの1年生が生涯で一番英語のできる時なのだ。私はそのような敬意を払って接した。英語の文法の話をした。
すると意外な答えが返ってきた。
「私はそのようなことを予備校で習いました」と。
聞くと、彼は二浪して合格した、とのこと。
高校だって、北海道で屈指の中高一貫校。灘、開成には及ばないが、毎年、卒業生の3分の一程度が国公立の医学部に進学する強豪校である。
彼の話によると、高校時代は、特に3年生の時には、英語の教官は二人いたが、一人は、授業を全部英語でする、つまり、今、政府が奨励しているAll English の授業。
あんなものを本当にやっているんだな。しかも受験校で。
あんなものを本当にやったら、英語が分からなくなる無駄な時間になるのは見えている。それが学校側では見えていないのだろうか。政府の言う通りにやれば幸福になると言うものでもあるまい。
結局、彼も予備校で「たった2年」そのような英文法を習い、能力があるのだろう。合格した。
しかし、こちらはロートルとは言え、小学6年生の1月に塾に入り、塾と学校とでこのような英文法はみっちりと仕込まれてきた。英語 イコール 英文法、と思っていた。
文法的機能を考え、長い文章は節に分ける。節に分けるのも英文法というロジックに則って分けるわけです。そしてそこで、英文の解釈もきちんといくと、それこそ、詰まった鼻がスッと通るように、きちんとした訳が出来る。故に、英語 = 英文法、と今でも信じている。
彼は能力のある若者であったが、英文法の鍛錬としては、私と歴然の差を感じた。
最高頭脳集団の一員の彼でさえ、この程度なら、他はどうなるのだろうか。
日本の英語のレベルはどうなっているのであろうか・・・
さて、このような厳しい話はこのくらいにしよう。
新々英文解釈研究の話。
私も高校時代はこれで勉強した。塾の教材であったから。
しかし、あまりやらなかった。半分くらいであろうか。
部活(ハンドボール部)も忙しく、塾にはあまり行けなかったし、理系だったので、数学とかで忙しかったから。
何よりもこの本は難しかったなあ。
それぞれの英文に品格を感じたが、難しかった。日本語の解答を読んでも何を書いてあるのかよく分からない。一文一文が高いところから我々を睥睨するように凛として峻厳として聳え立つような文章である。
さて、新々英文解釈研究の昭和初期の本を手に入れたので、これを、現代英文訓読法を使って読み解きたいと思うのである。
と、考えたら著作権はどうなる?
ネットで調べたら、そのものズバリ 新々英文解釈研究と著作権のことについて書かれた良いブログがあったので紹介する。
ずいぶん良い記事だなあ、と思って読んでいくと・・・なんだ、私が平成25年に書いたものでした。
新々英文解釈研究の著作権 (2013年9月18日)
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