2020年6月27日土曜日

柔らかな暗記7 津田梅子 the weakest of us may attain success

原文
With nobler desires, greater earnestness and wider sympathy not limited to just a few, but taking in the many even beyond the home, the weakest of us may attain success.    
21語(津田梅子)

現代英文訓読法


訳:より高邁な願望、より大きな熱意、少数の人だけに限らず家庭を超えて大衆の中に掴み取る様なより広い共感を以ってすれば、我々のような最も弱き者でも成功を成し遂げることができるだろう。

意訳:より高邁な願望と大きな熱意を持ち、少数の人だけに限らず家庭を超えて大衆により広い共感を得ることができれば、我々(女性)のような最も弱き者でも事を成し遂げることができるだろう。


いろいろな本を参考にして書いているが、
ある本では、 but taking in the many even beyond the home が抜けていた。

非常に訳のしにくいところであった。
not A but B (not limited--- but taking)の形になっていて、かつ、これがsympathyを修飾していることに、自分はやっとの思いで気がついた。
 takingの訳が難しかったが「掴み取る」とした。受動態、というか、過去分詞形でtakenとあれば、もっと訳しやすかったが、それは日本語的な感覚かもしれない。

 その著者が何を思って but taking in the many even beyond the home を省いたのかは不明。日本語訳が分からなかったのであろうか。そのようなこともあるまい、とは思うが。
 しかし、ここは重要なところ。
 明治の「男尊女卑」の風潮が強く漂い、女性は家庭に入るのが当たり前で、社会で活躍するなどちょっと考えられなかった時代。
 しかし、「女たちよ やってみよう」と津田梅子は訴えたのである。
 それが、even beyond the home に強く込められている。
 そして、さらに後の、the weakest of us に続いていくわけだ。

 そう考えると、 but taking in the many even beyond the home は省いてはいけないところであると思う。

 武士道など、このように英文和訳をしているが、時々、省略しているものを見る。
 時に、非常に訳しづらい所が省略されている。
 さすがの専門家の著者も訳ができなかったのかな、とも思う時もある。
 しかし時として、非常に大事な箇所であることが多いことも実際によくあることである。

 私だって、こうやって訳してはいるが、どうしても分からない所もある。
 その場合でも私はごまかさない。
 いや、誤魔化せないのだ。現代英文訓読法ではまったく誤魔化しは効かない。
 私は、訳ができない場合は、「彼此の理由で訳が出来なかった」と記載する様にしている。


津田 梅子(つだ うめこ、元治元年12月3日1864年12月31日) - 昭和4年(1929年8月16日)は、日本教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英学塾(のちの津田塾大学)創立者。
初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。

梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族下総佐倉藩出身)・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれた[注 1]。 父・仙は幕臣であったため、江戸幕府崩壊とともに職を失ったが、明治2年(1869年)に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移った。仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしている。

アメリカ留学[編集]

明治4年(1871年)、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移る。開拓次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、同年、岩倉使節団に随行して渡米。5人のうち最年少の満6歳であった。11月に横浜を出港し、サンフランシスコを経て、同年12月にワシントンへ到着。
渡米直後(明治4年(1871年))

アメリカではジョージタウンで日本弁務館[注 2]書記で画家のチャールズ・ランマン 英語版夫妻の家に預けられる。5月には森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に住まわされるが10月には上田悌子、吉益亮子の2名が帰国した。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際に二人は助力する。
梅子は再びランマン家に預けられ、十数年を過ごすことになる。梅子は英語ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。日本へ宛てる手紙も英文で書くようになる。この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、明治6年(1873年)7月には特定の宗派に属さないフィラデルフィア独立教会洗礼を受ける。明治11年(1878年)にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語フランス語などの語学英文学のほか、自然科学心理学芸術などを学ぶ。また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行している。明治14年(1881年)には開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、明治15年(1882年)7月に卒業。同年11月には日本へ帰国する。

帰国後の活動[編集]

梅子らは帰国したものの、儒学の価値観が色濃く残る日本においては女子留学生の活躍できる職業分野にも乏しく、山川捨松と永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁した。また、幼少からの長い留学生活で日本語能力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい[注 3]、日本的風習にも不慣れであった。明治16年(1883年)には、外務卿・井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。このころ父・仙との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通う。明治18年(1885年)には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった[注 4]。明治19年(1886年)には職制変更で嘱託となる。
梅子は華族女学校で3年余り教えているが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っている。やがて梅子は「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたためたほど、日本の結婚観に辟易して生涯未婚を誓う。明治21年(1888年)には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意。父の仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可される。明治22年(1889年)7月に再び渡米。

ふたたび留学


当時は進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はフィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジセブン・シスターズ (大学)のひとつであるブリンマー大学生物学を専攻する。3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆*1。使命であった教授法に関する研究は州立のオズウィゴー師範学校で行う。梅子に留学を勧めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版(『日本の女性』)する際には手助けをしている。これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われており、留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行う。

 *1:当時ブリンマー大学に在職していて1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞するモーガンに師事、梅子はカエル卵の卵割と体軸の方向性について1891年から1892年にかけて実験を行い1892年の春に成果をまとめた。モーガンは1893年の春に華族女学校の教師津田うめとの共著論文として5章から構成される論文にまとめたが、梅子の成果は第2章にほぼそのままの形で使用された[1]。本人はおろか弟子、孫弟子8人がノーベル賞を受賞するモーガンの影響は、梅子にも計り知れないものがあった。
ブリンマー大学在学時(1890年(明治23年))

教育者として[編集]

大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められるが、明治25年(1892年)8月に帰国。再び華族女学校に勤める。梅子は教師生活を続けるが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行い、明治27年(1894年)には明治女学院でも講師を務める。明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任する。成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、明治32年(1899年)に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、明治33年(1900年)に官職を辞する。父のアリス・ベーコン大山捨松瓜生繁子桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。認可を受けると東京麹町区に開校し、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始める。

旧友の再会
左から、津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松

女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となる(ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだという)。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられ、梅子やベーコンらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われる。明治36年(1903年)には専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人とする。
梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任する。鎌倉の別荘で長期の闘病後、昭和4年(1929年)に脳出血のため[2]64歳で死去する。生涯独身を貫いた。墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にある。
女子英学塾は津田英学塾と改名するも、校舎は後に戦災で失われ、津田塾大学として正式に落成・開校したのは梅子没後19年目の昭和23年(1948年)のことである。

津田塾大学

さて、覚えられましたでしょうか。


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