2020年6月27日土曜日

柔らかな暗記5 ベートーベン This is the mark of distinction

原文
This is the mark of distinction of a truly admirable man:steadfastness in times of trouble.(Beethoven)16単語

現代英文訓読法で


訳:真に賞賛すべき人の卓越した特徴というものは:困難な場合にしっかりとしていること、である

mark1 /mɑːrk/
〖語源は「境界(の印)」〗
marked
⦅SVO(+)⦆⦅SVOC⦆他動詞1印を付ける 6採点[評価]する
⦅SVO(+)⦆他動詞2, 5a示す 3傷を付ける
〈表象〉名詞13現れ
〈表示〉名詞2記号, 標識 4水準 5成績

3 C〖通例単数形で〗(感情性質などの)現れ, ; 特徴
▸ as a mark of respect
敬意の印として.

distinction /dɪstɪ́ŋ(k)ʃ(ə)n/
→distinguish
名詞複~s /-z/
1 U «…の間の» 区別, 相違, 差異; 差別, 分け隔て «between» (!具体例ではa ~/~s; その際しばしば修飾語を伴う)
make [draw] a distinction between discipline and punishment
しつけと罰の区別を付ける
make no distinction between the sexes
男女差別をしない
a big [clear, crucial, subtle] distinction
大きな[はっきりした, 決定的な, 微妙な]違い
a distinction without a difference
名ばかりの区別.
2 C〖単数形で〗 «…という» 栄誉 «of» (!時にa [the] dubious ~で不名誉を表す) ; ⦅英かたく⦆栄誉の印, 称号, 勲章; ⦅英⦆優秀賞
have the distinction of
…という栄誉を得る
▸ get [gain] a distinction in the exam
試験で優秀な成績をとる.
3 U⦅かたく⦆卓越, 優秀性; 高名, 名声
▸ a doctor of great distinction
すばらしく優秀な医者.


steadfast /stédfæ̀st|-fɑ̀ːst/
形容詞
⦅文⦆ «…において» 不動の, 揺るがない, しっかりした «in»
▸ remain steadfast in one's refusal to resign
辞任することを断固として拒んでいる
▸ a steadfast faith
確固たる信念.
~ly
副詞
断固として, しっかりと.


これを、現代英文訓読法を用いて柔らかく暗記してみよう。
 よく読んで暗記してみよう。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンLudwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]1770年12月16日ごろ[2] - 1827年3月26日)は、ドイツ作曲家ピアニスト。音楽史上極めて重要な作曲家の一人であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる[3]。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。

生涯
1770年12月16日ごろ、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現・ドイツ領)のボンにおいて、父・ヨハンと、宮廷料理人の娘である母・マリア・マグダレーナドイツ語版の長男[4]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(のちに楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父・ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手テノール[5]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年ごろよりベートーヴェンは父からその才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽スパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳のときよりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母・マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[6]、その後はアルコール依存症となり失職した父に代わっていくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。
1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中でボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなくピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。
20代後半頃より持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者[要出典]となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためて自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、ふたたび生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。
40歳頃(晩年の約15年)には全聾[要出典]となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、たびたび非行に走ったり自殺未遂を起こしたりするなどした・カールの後見人として苦悩するなど、一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。
1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後は病臥に伏す。翌1827年3月23日には死期を悟って遺書を認めた[7]。病床の中で10番目の交響曲に着手するも、未完成のまま同年3月26日肝硬変のため波乱に満ちた生涯を閉じた。享年58(満56歳没)。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。


覚えたであろうか


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