「英語を勉強した方が良いよ」・・・「でもどうやって?」
「英語を勉強した方が良いよ」というアドバイスを大学生になって先輩から何度か受けたことがある。しかし、どのように勉強したら良いのか、具体的に教えてもらったことはない。もっともそのアドバイスをした先輩本人はどうであったか。彼らにしても、高校卒業以降はあまり英語を勉強したわけではなかったであろう。まったく私と同じである。したがって、どのように勉強したら良いのか本人自身も分からなかったであろう。
以後、時は流れた。自分なりに何らかのやり方で英語の勉強をした。それはどのようなものであったのか、それはためになったのか、何か良いことはあったのか。それを述べる。
自分は受験勉強は結構やった方だと思う。しかし大学生、社会人になって常々思っていた。それは本当の英語ではない。これからは自分なりに役に立つ「生きた」英語を勉強したいものだ、と。
そこで、英語会話の教材を買って聞いてみた。車の中で同じものを何度も聞いたことがある。さてどうか・・・聞こえるところは聞こえるし、分からないところは分からないままである。何も身につたような気はしない。何かが得られたような気はしない。また、この手のものは内容的にあまり面白くないのが通例である。
面白いもので「生きた英語」というのであれば映画である。自分の好きな映画の気の利いたセリフを拾ってみた。やってみるとどれもこれもが気の利いた台詞に思えるのである。「私参加するよ」というのを ”I’m in.” と言っていたりする。簡潔で格好の良い台詞である。感心する。しかしそのようなものがあまりにもの多い。全部大事に思えてくる。映画の台詞の海に沈んで行くような気持ちになった。しかし、である。このようなことを少しずつでも続けて行くのも一つの勉強であるのかもしれない。だが、誠に手前勝手かもしれないが、ある程度勉強したらそこで何かしっかりと摑むものが自覚できないと勉強は続かない。しばらくやってみたが自分では思ったほどの効果はあまりなかった。効率が悪すぎると思い辞めた。映画の中の気の利いたセリフをまとめた本も売っている。しかし、これはその作者が好きな映画の中のセリフを色々まとめたものであり、自分の知らない映画も多いし、知っている映画でもその場面を思いつかない。すると台詞がもはや輝きを失っているのである。映画はやはり見るもので、その部分だけを取り出しても面白いものではない。無味乾燥なものである。好きな映画の音声だけを録音して車の中などで聞いたことがあったが、これも面白いものではない。聞くのはもはや苦痛であった。すぐに辞めた。
更なるプロジェクト。学生時代に試験があるとそれに向かって勉強したではないか。夢よもう一度。それで自分で試験を設定してそれに向かって勉強したら良いのではないかと考えた。このように考える方は多いと思う。今なら、英検、TOFLE, TOEICとかであろうか。
私の場合は英検やら通訳案内業の試験を受けてみた。このようなことをするとそれなりに勉強はするのだが・・・・試験の形式に慣れると自分の学力に応じて何らかの点数が取れるようにはなる。しかし自分で決して満足できる点数でも級でもない。ここから頑張ると5 - 10%ほどは点数も学力も向上するものであるかもしれない。しかしそこからは上がらない。20%も30%も上げようとすれば、尋常ならざるものすごい努力をするか、あるいは、自分にピッタリ合った塾のようなところに通わなければならないだろう。それが現実であろうがとても難しい。
また、この手の勉強には大きな欠点がある。つまり、過去問や関連テキストに沿って勉強することになるのであるが、自分の嫌いな勉強もしなければいけないことになる。
具体的に言うと、面白くもない英文を長々と読まされたり、適語挿入の問題で、難解な問題になると選択肢のほとんどの単語が分からない、という状況も頻繁に出現する。問題の短文の意味を調べ、選択肢の単語を一つ一つ辞書で調べてゆく。非常に地味な作業が続く。これは昔やっていた「受験英語」そのものではないか。「本当に役に立つ英語」とか、「生きた英語」とやらはどこに行ったのであろうか。この手の勉強、詰まるところ、自分の思うような結果が次から次へと出てこないと嫌になるものである。私も英検2級は取ったのだが、準1級となるとすごく難しいように思えた。また、通訳案内業は3回受けたが一次試験すら受からず意欲は薄れた。
ネイティブの1対1の個人授業を受けたこともある。知人に紹介してもらった。これは新鮮であった。外国人と話したことは殆どなかったから。しかし、半年もすると馴れ合いになる。話すこともなくなる。新鮮ではあったが思ったほどの効果は上げられなかったと思う。
最後に海外留学について。私は35歳から37歳の時に、骨粗鬆症の研究のため、医局から派遣されロマリンダ(ロサンゼルスから東に120kmほどの所にある小さな街)に滞在した。初めは狼狽したが1年ほど経つとあちらの生活にも慣れ、研究室でも一通りのことは出来るようになった。新人に実験方法の指導をしたことも何度かある。1年ほど経って研究室にいた時にポツリと思ったことがある。「これで自分は英語が出来るようになったと言えるのか」と。2年ほど滞在したが、帰国直後は相当英語が出来たように思う。しかし、それ以後は整形外科医として身を立てなければならなかったし、仕事をこなしていくのに精一杯の日が続いた。今も続いている。英語の力を維持するとなるとかなり努力して継続して勉強しなければならないだろう。私はそのようなことはしなかった。
ここで語学留学のことについて述べる。私が留学したロマリンダにはアメリカの大学で勉強したい、と考えているたくさんの日本人の若者が滞在していた。しかし、英語力が足りない、と言われて入学はできず向こうの英会話学校に通っているとのことであった。向こうの大学は「ブランチ(枝)」と呼ばれる外国人専用の英会話学校を持っている。近郊のレッドランド大学にもあったし、ロザンゼルスの大きな大学UCLAにもブランチがあった。結局これは向こうの大学のビジネスである。また、アメリカは移民の国であるので、タダで通うことのできる「アダルトスクール」というものもあった。通ってみた。思ったこと。向こうにある英会話学校だからと言って特別なものがあるわけではない。日本にある英会話学校と一緒である。あまりに同じなのでそれが驚きであった。
アメリカ留学当時。帰国する際のお別れ会で。
左が直接の指導教官のDr. Leu, 右が研究施設のDirectorのDr. Byline. 中央が筆者。
1997年撮影
語学留学を私はあまりお勧めしない。最大の欠点はどうしても日本人同士強く引き合ってしまう。向こうにいると反動で日本語にすごく飢えるのである。結局、日本語で友人と話すことがすごく多くなる。英語を話すのは英会話の学校でだけ。それもboaring(退屈)なのであまり行かなくなる。留学となると半年であれ2年であれ自分の人生の中で大きな時間を使って行くことになる。お金もかかる。留学するのであれば、単なる語学留学ではなくて何かを摑むために行きたいものである。
このような感じで自分なりにいろいろやってきたのである。この中で自分で一番楽しかったのは英語の諺を覚えることであった。通訳案内業の試験には毎年英語の諺がいくつか出題された。そこで対策として100ほど覚えたのである。これが一番身になったように思える。受験英語にはなかった「役に立つ英語」であるし「生きた英語」であると実感、確信している。15年ほど前から中断した期間も多いのだが英語のことわざの暗記に取り組んできた。
冒頭の先輩のアドバイス 「英語を勉強した方が良いよ」
「では何を勉強したら良いのですか」と問われたら、私なら「英語のことわざを勉強したら良い」と確信を持って答えるであろう。
これから英語のことわざの暗記の効用について3部にわけて述べようと思う。
1部 英語のことわざ1000則をどのように選んだか。
2部 1000則もの英語のことわざを果たして暗記できるのか
3部 英語のことわざを1000則暗記するとネイティブを凌駕する英語力が身につくのか
(本稿ではことわざの単位を「則」と表す。ことわざ1000個は1000則ということとする)
コラム 素読 とは
この本のタイトルは「英文ことわざ 1000の素読」である。「素読」とは何か。
「素読」とは、読んで字のごとく、ただ読むことである。その昔、日本では子供たちが漢文を勉強する際、まず声を出して読んだのである。意味は分からなくでも声を出して読んだのである。そのうちに意味も頭に染みて来て分かるようになったという。これは「素読」という学習法である。ひょっとしたら今の日本では忘れられた勉強法かもしれない。
英語のことわざも漢文と同様に含蓄深いものが多いので意味を取るのは大変かもしれない。また、語呂やリズムを重んじて文法的にちょっとおかしいものもある。そのようなところで、理屈っぽいことを考えて止まってしまうのは良くないと思う。どんどん声を出して読んでみよう。
もちろん、意味が分からなくても良い、などと私は言うつもりはない。この本では私が考案した現代英文訓読法を用いて書いてあるので、単語の意味や文のつながりはある程度容易に理解できるのではないかと思う。もちろん時に自分で辞書や参考書で調べたりすることも必要だ。
しかし、あまり深く考えずにどんどん読んで、どんどん暗記したら良いと思う。これが「素読」である。そのようにやっていくとすると、ことわざの意味も頭のみならず体に染みてくる。そして体に吸収されてくる。そして繰り返し繰り返し素読を繰り返すうちに、それが自らの血となり肉となる。そのようにして得られた知識はもはや英語だけに止(とど)まらない。教養として体に蓄えらる。
それが時として外に滲み出てくるとそれは風韻となり、それがその人の人格を形成する。そのように形成された人格はその人のどっしりとした風格になるのである。
この本は販売しております。
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